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最高裁判所第一小法廷 昭和63年(オ)385号 判決 1989年9月14日

主文

原判決を破棄する。

本件を東京高等裁判所に差し戻す。

理由

上告代理人菅原信夫、國生肇の上告理由二について

一  原審の確定した事実関係の概要は、次のとおりである。

1  上告人は、昭和三七年六月一五日被上告人と婚姻し、二男一女をもうけ、東京都新宿区市谷砂土原町所在の第一審判決別紙物件目録二記載の建物(以下「本件建物」という。)に居住していたが、勤務先銀行の部下女子職員と関係を生じたことなどから、被上告人が離婚を決意し、昭和五九年一一月上告人にその旨申し入れた。

2  上告人は、職業上の身分の喪失を懸念して右申入れに応ずることとしたが、被上告人は、本件建物に残って子供を育てたいとの離婚条件を提示した。

3  そこで、上告人は、右女子職員と婚姻して裸一貫から出直すことを決意し、被上告人の意向にそう趣旨で、いずれも自己の特有財産に属する本件建物、その敷地である前記物件目録一記載の土地及び右地上の同目録三記載の建物(以下、これらを併せて「本件不動産」という。)全部を財産分与として被上告人に譲渡する旨約し(以下「本件財産分与契約」という。)、その旨記載した離婚協議書及び離婚届に署名捺印して、その届出手続及び右財産分与に伴う登記手続を被上告人に委任した。

4  被上告人は、右委任に基づき、昭和五九年一一月二四日離婚の届出をするとともに、同月二九日本件不動産につき財産分与を原因とする所有権移転登記を経由し、上告人は、その後本件不動産から退去して前記女子職員と婚姻し一男をもうけた。

5  本件財産分与契約の際、上告人は、財産分与を受ける被上告人に課税されることを心配してこれを気遣う発言をしたが、上告人に課税されることは話題にならなかったところ、離婚後、上告人が自己に課税されることを上司の指摘によって初めて知り、税理士の試算によりその額が二億二二二四万余円であることが判明した。

二  上告人は、本件財産分与契約の際、これより自己に譲渡所得税が課されないことを合意の動機として表示したものであり、二億円を超える課税がされることを知っていたならば右意思表示はしなかったから、右契約は要素の錯誤により無効である旨主張して、被上告人に対し、本件不動産のうち、本件建物につき所有権移転登記の抹消登記手続を求め、被上告人において、これを争い、仮に要素の錯誤があったとしても、上告人の職業、経験、右契約後の経緯等からすれば重大な過失がある旨主張した。原審は、これに対し、前記一の事実関係に基づいて次のような判断を示し、上告人の請求を棄却した第一審判決を維持した。

1  離婚に伴う財産分与として夫婦の一方が他方に対してする不動産の譲渡が譲渡所得税の対象となることは判例上確定した解釈であるところ、分与者が、分与に伴い自己に課税されることを知らなかったため、財産分与契約において課税につき特段の配慮をせず、その負担についての条項を設けなかったからといって、かかる法律上当然の負担を予期しなかったことを理由に要素の錯誤を肯定することは相当でない。

2  本件において、前示事実関係からすると、上告人が本件不動産を分与した場合に前記のような高額の租税債務の負担があることをあらかじめ知っていたならば、本件財産分与契約とは異なる内容の財産分与契約をしたこともあり得たと推測されるが、右課税の点については、上告人の動機に錯誤があるにすぎず、同人に対する課税の有無は当事者間において全く話題にもならなかったのであって、右課税のないことが契約成立の前提とされ、上告人においてこれを合意の動機として表示したものとはいえないから、上告人の錯誤の主張は失当である。

三  しかしながら、右判断はにわかに是認することができない。その理由は、次のとおりである。

意思表示の動機の錯誤が法律行為の要素の錯誤としてその無効をきたすためには、その動機が相手方に表示されて法律行為の内容となり、もし錯誤がなかったならば表意者がその意思表示をしなかったであろうと認められる場合であることを要するところ(最高裁昭和二七年(オ)第九三八号同二九年一一月二六日第二小法廷判決・民集八巻一一号二〇八頁、昭和四四年(オ)第八二九号同四五年五月二九日第二小法廷判決・裁判集民事九九号二七三頁参照)、右動機が黙示的に表示されているときであっても、これが法律行為の内容となることを妨げるものではない。

本件についてこれをみると、所得税法三三条一項にいう「資産の譲渡」とは、有償無償を問わず資産を移転させる一切の行為をいうものであり、夫婦の一方の特有財産である資産を財産分与として他方に譲渡することが右「資産の譲渡」に当たり、譲渡所得を生ずるものであることは、当裁判所の判例(最高裁昭和四七年(行ツ)第四号同五〇年五月二七日第三小法廷判決・民集二九巻五号六四一頁、昭和五一年(行ツ)第二七号同五三年二月一六日第一小法廷判決・裁判集民事一二三号七一頁)とするところであり、離婚に伴う財産分与として夫婦の一方がその特有財産である不動産を他方に譲渡した場合には、分与者に譲渡所得を生じたものとして課税されることとなる。したがって、前示事実関係からすると、本件財産分与契約の際、少なくとも上告人において右の点を誤解していたものというほかはないが、上告人は、その際、財産分与を受ける被上告人に課税されることを心配してこれを気遣う発言をしたというのであり、記録によれば、被上告人も、自己に課税されるものと理解していたことが窺われる。そうとすれば、上告人において、右財産分与に伴う課税の点を重視していたのみならず、他に特段の事情がない限り、自己に課税されないことを当然の前提とし、かつ、その旨を黙示的には表示していたものといわざるをえない。そして、前示のとおり、本件財産分与契約の目的物は上告人らが居住していた本件建物を含む本件不動産の全部であり、これに伴う課税も極めて高額にのぼるから、上告人とすれば、前示の錯誤がなければ本件財産分与契約の意思表示をしなかったものと認める余地が十分にあるというべきである。上告人に課税されることが両者間で話題にならなかったとの事実も、上告人に課税されないことが明示的には表示されなかったとの趣旨に解されるにとどまり、直ちに右判断の妨げになるものではない。

以上によれば、右の点について認定判断することなく、上告人の錯誤の主張が失当であるとして本訴請求を棄却すべきものとした原判決は、民法九五条の解釈適用を誤り、ひいて審理不尽、理由不備の違法を犯すものというべく、右違法が判決に影響を及ぼすことは明らかであるから、この点をいう論旨は理由があり、原判決は破棄を免れない。そして、本件については、要素の錯誤の成否、上告人の重大な過失の有無について更に審理を尽くさせる必要があるから、本件を原審に差し戻すこととする。

よって、その余の論旨に対する判断を省略し、民訴四〇七条一項に従い、裁判官全員一致の意見で、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 大内恒夫 裁判官 角田禮次郎 裁判官 佐藤哲郎 裁判官 四ツ谷巖 裁判官 大堀誠一)

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